おんなのひとのけいべつ

川上弘美の『ニシノユキヒコの恋と冒険』から抜粋。

ユキヒコはあおざめていた。わたしのことを、甘くみていたのだ。いつもいつも。わたしはユキヒコを甘くみていなかったのに。でも甘くみあわないで、どうやってひとは愛しあえるだろう。許しあって、油断しあって、ほんのすこしばかり見くだしあって、ひとは初めて愛しあえるんじゃないだろうか。

わたしは「人と付き合うことは侮ることだ」という自戒を持っている。それは、ひとに好意的な気持ちを向けるとき、その気持ちに相手を甘くみたり軽んじたり見下したりという気持ちが少なからず混じっていることを知っているからだ。だから、このフレーズはわたしのその事実を体よく無視出来ないという気持ちを含め誇張表現になっている。

おんなのひとが、好きで好きで仕方のないひとに対して軽蔑の気持ちを向けていると他人が分かる瞬間はどんなときか。それは、誰かがそのおんなのひとを、そのひとの所有物のような発言をするとき。

少なくともわたしは、それにイラッとする。なぜか。わたしは誰かの所有物ではなく、一人の人間だから。しかし、そういう思いは、確かに幼稚と云わざるを得ない。社会で生きていく上で誰かと一まとめに扱われるということに本来なら慣れていなければいけないからだ。関係していくということが社会でもある。それなのに。

正論を云えば、関係性をもっているだけで、わたしも個人として独立した人間なのであって、もちろん彼に所有されている気も自分が付属物である気もさらさらない。わたし単体ではなく、付き合っているおとこのひとをフィルターとして彼を通してわたしという人間を見られることに、わたしはまだ慣れていない。ただそれだけのこと。

しかし、こうした思いが漫画や小説などにもよく出てくるように、これはわたしだけの思いではないらしい。

ひとが誰かと関係しているとき、そこには尊敬と軽蔑がある。両方があって、初めて関係していられる。もしもおんなのひとが誰かおとこのひとの精神的な所有物、配下に置かれる存在なのだとしたら、そのときそのおんなのひとは自己を放棄するしかない。そこには尊敬も軽蔑もなく、対等ではないために自己を全うすることも敵わない。

だからこそ、誰かがおんなのひとを彼の所有物のような発言をするとき、その度彼女は軽蔑している。誰を。その好きで好きでたまらないおとこのひとを。そうしておんなのひとは自我を守り、自分が彼と対等であろうとする。これは自分を守るための正当防衛。自分のなかにある城の主である自分がそこから転げ落ちてしまわないためのもの。おとこのひとは、こういったおんなのひとの中にある、已まれぬ軽蔑を知らないものらしい。ふしぎ!